1581年の伊賀天生の乱を経て、1585年に筒井定次が伊賀の統一的支配者となった。筒井は上野に城を築き、阿保には岸田伯耆を与力として配置した。これで阿保は城下町的な要素を持ち、町として発展していく事になった。

 1608年9月下旬、伊予国の城主から伊賀全国・伊勢国安濃郡・一志郡一部を治める城主に転じる事を命じられた藤堂高虎は入国後直ちに伊賀の国中を視察し、治世方針を考えた。

 11月5日には上野・名張・阿保以外での商業を禁止するお触れを出した(1670年になって他の5か所でも許された)。これは、街と村の分離、商業と農業の分離、農民の離村・転職(商人化)の防止という封建的政治の方向にそうためであった。

 藤堂高虎は阿保に行政機関を置かなかったことから阿保は城下町的要素を失い、初瀬街道の往来が盛んになるにつれて宿場町として発展していくことになる。

 阿保は上野街道・八知街道の分岐点にあたり初瀬街道でも名だたる宿場であった。大阪方面から伊勢神宮に参拝する者は、必ず阿保の町で一泊してから青山高原を越えていった。参拝客は一年中途絶えることがなく、四季を通じて阿保の町は宿泊客で賑わっていた。

 明治22年には町村制実施により阿保村が誕生し、大正9年には町制をしき阿保町となった。

阿保町町舎にて 大正9年

町制施行時の初瀬街道・伊勢慶旅館前にて 大正9年


   昭和30年には阿保町、上津村、種生村、矢持村の1町3村が合併し青山町となった。

青山町町名決定の場 昭和29年

 300点あまりの応募の中から選ばれた町名候補「青山町」と「伊南町」の決選投票の様子。34対31で青山町に決まった。

青山町合併記念の仮装行列 昭和30年

青山町庁舎 昭和48年頃


平成16年に青山町、上野市、伊賀町、島ヶ原村、阿山町、大山田村の6市町村が合併し伊賀市となった。